コミュ障&吃音持ちで、20年間友達ゼロの大学生の私。長いあいだ人との関わり方に悩んできましたが、そんなに悩まなくていいと思えるようになってきたので、それについて書きたいと思います。
「普通」にとらわれていた私
私は、人と話すことに苦手意識があります。滑舌が悪いし、吃音もあるので、自分の声に自信が持てません。
それで、高校生のときはずっと、「普通になりたい」と思っていました。まわりの人のように、普通に会話ができるようになりたかった。
でも、どんなに強く願っても、その思いが叶うことはありませんでした。
当時は、というより最近まで、強い先入観にとらわれていました。人生で人間関係は大切だ。大学生活は友人をたくさん作って楽しまないといけない。サークルは普通入るものだ。私は先入観や常識に苦しめられていたのです。それは、「普通になりたい」という思いから生じたものなのでしょう。
サークルも、自分がやりたいことができればいいのかもしれませんが、組織である以上そうはいきません。ルールや全体の目標に縛られることになります。私は自分に任された仕事が、本当はやりたくないな、こんなことやって何の意味があるのだろう、と薄々感じてきました。
集団の中にいると、自分とは異なる価値観にさらされることになります。価値観の多様性は認めているつもりでしたが、常識という価値観を押しつけられるのは嫌でした。例えば私の場合は真面目さを褒められることがありましたが、それは決して嬉しいものではありませんでした。なぜなら、常識的には真面目であることがすばらしいのかもしれませんが、私は必ずしもそうだとは思わないし、逆に自分が悩んでいることでもあったからです。もちろん反論するようなことはできるタイプではありませんでした。
自分の価値観で発言することを否定するわけではありませんが、私にとっては苦痛に感じていたのです。
いくつか理由をつけて、サークルをやめました。やめたのは自分を変えたかったから、というよりは、単に苦痛だったからです。
人と過ごすことはストレス
人の悩みは、すべて人間関係が原因だと言っても過言ではありません。他人と比べたり、周囲からの評判を気にしたりすることが、自分の中に悩みを生み出します。
他人と過ごす時間、社会の中で過ごす時間は、考えなくてはならないことがとても多いと感じます。例えば、家から出たら服装や髪型などの身だしなみが気になります。図書館に入ったら、スマホの音を鳴らしたり、物音を立てたりしないように気をつけなければなりません。自分が所属しているコミュニティーの中にいるときは、他人が自分のことをどう思っているのかが気になってしまいます。他人と行動を共にするときは、常に相手の意思を読み取らないといけないし、自分の意思をわざわざ口にしなければなりません。集団で行動していたら勝手にトイレに行くこともできないのです。今挙げただけでもこれくらいのことは、他人といる間に考えています。私は考えすぎてしまうタイプなのか、あるいはそれに対してストレスを感じやすいタイプなのかもしれませんが、人と過ごしていてストレスが全く生まれない人のほうが少ないのではないでしょうか。
人と過ごす時間が、自分を苦しめているという事実があるかもしれないということに、まずは気づけたらいいのではないかと思います。
ひとりになってみる
一人になってみて、初めて気づくことがたくさんあります。
私はサークルをやめてから、一気に一人になったと感じました。でも、私にとってはそのほうが快適だったのです。人といるときは、何か圧迫感のようなものを感じてストレスがかかるので、それがなくなることの効果に気づくことができました。「一人のほうが好き」ということに気づけたのは大きかったです。
一人になってみると、自分が人と過ごす時間が好きなのか、一人でいる時間が好きなのか、分かってくると思います。急に一人になると最初は孤独に襲われるかもしれませんが、孤独感は次第に去っていくものです。最初のうちは我慢が必要です。
しばらく人との距離をおいてみると、意外と多くの悩みが軽減されることに気づけるはずです。ストレスが減り、解放された気持ちになります。
また、身近な人から距離を置くことで、逆に多くの人の考えを知ることができます。空いた時間で、本を読んだり、YouTubeを見たりすれば、世界中の様々な人の考えに出会うことができるのです。今まで固定観念に縛られていた自分に気づくでしょう。実際、私はサークルをやめてできた時間で読書をして、今までにない考えに出会えたことで人生が変わりました。
サークルやバイト、友人との遊びなど、人と過ごす時間が多い人は、一人の時間を増やすことを試してみるといいかもしれません。一人ので過ごすという選択肢を増やすことが大切です。
無理しなくていい
私はもともと周囲からは真面目な性格だと捉えられていたと思いますが、そのせいか、なかなか諦めるとか常識から外れるということができませんでした。
コミュ障を克服しなければならないと、ずっと思っていました。でも、それはできなかった。
サークルをやめたことは、コミュ障克服の道から離れるという「諦め」を意味しました。しかし、それによって、コミュ障を克服しなければならないという気持ちを少しずつ手放すことができました。すると、気づいたことがあります。それは、「〜しなければならない」という根拠のない義務感にとらわれていることがあまりにも多いということです。誰とでも話せるようにならなければならない。大学ではサークルに入って友人を作らなければならない。勉強は真面目にやって大学院に行って良い就職先を見つけなければならない。このような常識というか、よく言われる望ましい生き方を、義務として強く捉えすぎていました。
根拠のない義務感でやっていることは、やめたほうがいいということに気づきました。世間一般に言われていることでも、それが自分に当てはまるとは限りません。生き方は多様です。たいていのことは、やめたところで大したことありません。今までやっていたことを辞めてみることで、時間と心の余裕が生まれます。そうなれば、自分が本当に求めていたことを始めることができます。
私はひとりで生きていくと決めました。まだまだ未熟で、ひとりで生きていくには力不足ですが、自分だけの生き方を見つけていきたいと思います。